振り切る
暑いし、感染拡大のニュースもあったりして、夏はとにかく引きこもりました。
そんな状態なので、いっとき盛り上がった洋服熱もそのまま放置で、すっかり忘れていました。
でもやっと涼しくなってきて、生気が戻り始め、そろそろそんなことを考える余裕も出てくるかな、というところです。
ただ今は、私の中で潜在意識ブームで、そもそもが外界に意識が向いていない状態で、準備しないとなーという一般的な感覚はありつつ、そこまで興味が湧かない、というのが現状です。
ふと、洋服な〜と頭を掠めたときに思ったのは、どうしよう、ということ。
あれ。私、コンサルティングを受けたのに、迷いは消えてないな、と気付いてしまいました。
迷い、というか、実際、というか、自分がどんな洋服を着たいか、ということが、全く浮かばないのです。
カジュアルでいい、ということはわかりました。
好きなデザイナーも見つけました。
でも、洋服で自己実現できている自分が想像できないのです。
好きなデザイナーの服を着ているだけで満足できるのであれば、もちろんそれを着るのですが、それでもない。
好きだけど、今季のパターンには私が着たい服はない。
となると、途端に迷子です。
ちゃんと探しに行けばいいのでしょうけれど、ネット通販に慣れてしまうと、ウロウロしに行くのも面倒くさくて。
こだわりは人一倍強いくせに、追求する熱意はないという、どうしようもないですね。
そして、ファッション業界には流行り廃りがあり、なんとなく、旬のものがいい、という暗黙のプレッシャーがあります。
でもそれも、実は他人軸では、と最近の自己啓発脳で考えると、浮かんできました。
流行りは他人が決めたもの。
それを意識するかしないかは、自分が決めればいいことなんですよね。
それでもやっぱり、人目を気にしてしまっている自分に気が付きました。
自分はこれが好き、と胸を張って言えるものがあれば、そこまで振り切れることができれば、もっと世界は広がっていくのかなーと思いました。
とりあえず、今の私が気になっている洋服はジャージ。スウェットパンツです。
たぶん、私は履いてもいいタイプの人間だし、私も好きだし、絶対履くから無駄にはならない。
間違いはないのだけれど、ジャージって。
これも、ジャージ=部屋着、みたいな一般的価値観に引き摺られているということ?
私自身もテンションは上がりません。
でも私はジャージが似合っちゃう人間なんですよねー。
複雑です。
術後⑨
眼瞼下垂手術から、6ヶ月が経過しました。
最近やっと、まつ毛際の麻痺感が薄らいできた感じです。
半年もかかったんだなーと思うと、改めて相当の手術だったんだ、と感慨深いです。
やはり切って縫った傷跡は見えないけれど残っているので、引き攣れ感は実感にも見た目にもあるにはあります。
いくら人間の身体の神秘、といえども、なかったことにはならないのね。
これから瞼がたるむにつれ、違和感はさらに顕著になるだろうことを考えると、ちょっと気が重い。
まあでも、目を開けているのが辛い、ということはなくなったので、手術をした意味はあったとは思います。
麻痺感がなくなり、筆先が触れるときのざわざわ感が和らいできて、お化粧もできなくはないところまではやってきました。
ただ、目がよく開くようになったからなのか、縫い目で引っ張られているせいか、まつ毛際の状態が手術前とは違うので、なんだか上手くいきません。
以前は、瞼が下がってまつ毛際は下向きだったので、目の際は見えなかったんですよね。
でも今は引っ張り上げられている状態なので、まつ毛下の粘膜まで見える感じで、そうなると、今までの適当ラインだと、浮いてしまって気持ち悪いのです。
瞼にアイラインが移る、という現象も始めて経験しました。
何度かやってみて、どうもおかしくて、なるほど、これはお化粧の方法も変えないといけないのか、とようやく気がついたところです。
もともとアイメイクは似合わないし上手く出来ないしこだわりもないので、研究にも熱は入りませんが、そのうち、気が向いたら、いろいろ試してみようかなーと思っています。
これにて、定期検診も終わり。
ひとまず、無事に終えられたことに感謝して、これからはこの傷モノの顔と一緒に、頑張って生きていこうと思います。
切り離し
人はなにかしら、他者からの影響を受けています。
それが自分にとってネガティヴに働くとき、どうしても被害者意識が働いてしまうと思います。
こういう親だったから。
こういう環境だったから。
こう言われたから。
こうやらされたから。
意識が外へ、人へ、環境へ向いてしまって、そこを原因として、嫌悪したり諦めたりしてしまいがちです。
でも今回私が気づいたことは、その人や環境と、その行為と、自分への影響は、切り離して考えてはどうだろう、ということです。
例えば、多くの人は親から躾を受けて、それが自分のルールになっていることと思います。
でもそれが、子どもの自分にとっては重荷で苦しいとき。
それを与えた親に感情が向きがちです。
でも親も、子どもが憎くてそうしたわけではないはずです。
きっと、よかれと思って大多数に合わせた、教育の意味で行った行為だと思われます。
それを、自分の苦しい感情と、それを与えた親とを結びつけてしまって、いつまでも根に持ち続けることは、はたして正当なことなのか。
そこに意味はあるのか。
きっかけはそこにあったとして、今自分がその状態にいること。
そしてその状態に居続けることとは、別物なのかもしれない、と思ったのです。
もしくは、別物として扱うほうが、自分にとっては何倍も意味がある、都合がいい、と思いました。
そうやって、他者の影響を認めて、取捨選択をしていくことで、より、自分の中の主体性が増し、自分が自分を生きる、ということ、自分が自分を幸せにする、ということについて、さらに実感が湧いてくるような気がしました。
自己肯定
自己肯定感、という言葉もわりと一般的になっていますよね。
ただ額面どおり、高めようとすればするほど、今の苦しい状態をそのまま認めて受け入れようとするだけ、になってしまうのではないかな、と思いました。
他者からの影響を無防備に受け続けた状態の自己を、そのまま肯定する、ということ。
それでは、人生の主体が自分なのか、外野なのか、わからなくなってしまいます。
人間にとっていちばん大切なのは、安心安全であることです。
社会のルールや教育に縛られて、我慢していることすら気付けない状態で、本当に心から安心して自分のすべてを受け入れ、日々満足感と幸福感を感じながら生きることができるのか、ということです。
ただ、社会生活を送る中では、心のままに振る舞うことは許されません。
それは世の中のルールとして、仕方がないことです。
でもせめて、自分の中では、思うがままを許すこと。
それならば、誰にも邪魔されず、誰に迷惑をかけることもありません。
自分のすべてを受け入れてくれるのは、自分だけ。
自分を幸せにできるのは、自分だけ。
だから、せめて自分だけは、自分に優しく、全肯定してあげること。
それだけでいい、と思うのです。
当事者意識
個人的なことですが、気づいたことなど。
インナーチャイルドを癒す、ということは、なんとなく聞いたことがありました。
でもこれ、幼少期に特別な体験をしていない自分には関係ないと思っていたのです。
でも、そういうわけでもないのかな、と思いました。
他者と関わる中では、ルールがあり、躾があり、無防備な幼少期には、それがすべてと思い込んでしまいます。
それが、自分の常識となるのですね。
だから、それ以外は許されない、許せない、となってしまうのだと思います。
でもそれって、すごく不自由で苦しいこと。
それに気づいて解放してあげられるのは、自分しかいないんですね。
ただ、今まで散々刷り込まれた常識の中での思考回路では、そこから抜け出すことは難しいし、自己防衛ゆえの被害者意識が強いと、なかなか能動的に抜け出そうと思うことすら起こらない、ということになってしまいます。
自分は大丈夫、と思いがちですが、誰もが他者から影響を受けて育っています。
そのことについて、一度きちんと考えてみると、新たな自分に気づくことがあるかもしれません。