気ままに生きよ

気ままに わがままに 自分らしく

また汗疹

今年の夏も暑かった。

そのせいか、背中に汗疹ができてしまったようです。下着のゴムが当たる部分。
そういえば、去年の今頃にも腋部分が赤くなって、下着を変えたのでした。思えば、あれも汗にまけたせいだったのかも。
 
背中は大人になってからもアトピーが出たりしたし、見えないし心配だったので、ステロイドを塗って、早めに処置して今のところ大事には至らずすんだようです。
 
もともと下着の締め付けが嫌いで、苦しくないものを選んできたつもりですが、それでもゴムや縫い目が擦れるとなると、胸を意識した女性用の下着自体、受けつけなくなってしまいます。
 
暑い夏特有の、汗のせいで肌が弱くなっていたから、という原因があるにせよ、夏は暑いのが当たり前。
生きていくうえで、汗とは無縁ではいられないので、せめて刺激を与えない方向で、対策していかないとな、と思いました。
 
世の中、寝ている時にも胸用の下着をつけるのが常識となりつつあるなか、まったく支えない、というのも心苦しいのですが。
怠惰ではなく、苦肉の策。と自分自身に言い訳をしながら、締め付けからの解放はとても魅力的です。
 

後半のスタート

自粛中に人生を考えた、なんて話題を見ながら、私自身はいっこうにそんな考えも湧かず、どうしようかな〜と考えるふりをしてみても、なにも思いつかなかったのですが、ここにきてようやく、私にもそんな気分がやってきました。
どれだけぼんやりしていたんでしょうねぇ。

具体的にどう、ということまでではないのですが、初めて実感として、私ももう、人生の後半にきたんだな、と自分の立ち位置を確認したように思います。
20代から、30代、40歳くらいまでは、ある意味継続していて、もっと、とかまだまだ、とか、同じ方向を向いていられたような気がします。
ただその先、50代、60代を考えるには、30代の視点では、もう想像もできないところにあって、人生折り返しとはよくいったもので、それまでとは全く逆方向を見るような、人生のステージが変わったような、そんな気分になるんだな、むしろ、そうならないといけないんだな、と思ったりしています。
いつまでも若いつもりでいるわけにもいかないし、それはそれで辛いものだと思います。
それよりも、自分の年齢を受け入れて、それにふさわしい目標なり、スタンスで生きていくことのほうが、より自然、快適なんじゃないかと思いました。

これから先、体力も落ちてくるでしょうし、犬がいなくなり、親、親戚、友人知人がいなくなり、私もいつまで踊れるか、終の棲処はどこにするか、仕事はどうするか、など、終わりから逆算することも増えてくるだろうと思います。
40代の今だからこそ、後半のスタート地点の感覚で、これからの人生を考える。
漠然と歳をとるのではなく、終わりを悲観することでもなく、老いとともに生きる想像と計画を。
発想の転換。視点の交換。立ち位置の確認。
まずは、そこからですね。








私の変化

外出自粛が始まってからも、どうせもともと出掛けないし、友だちもいないし、それほど苦には感じていませんでした。
今も、たまには気分転換でもしたいよねーと思いつつ、結局なにもしないまま。
街歩きも美術館もライブも外食も、エステも整体も美容室も、全部ぜんぶ後回しです。
できないわけではないけれど、しないほうがいいもの、と思うと、危険を冒してまで、する気にもなりません。
ただ最近は、どうせできないんだから、と思うと、今までだったら想像すらしなかったことも、頭をよぎるようになりました。

海外の美術館巡り、とか、国内旅行、とか。
よくある、宝クジが当たったら何する?みたいな妄想です。
現実問題として、お金が、時間が、ということがネックになって叶えられないようなもの。
私の場合、宝クジが当たったとしても、お金や時間があっても、旅行などには興味がなかったのです。
なぜなら、面倒くさいから。

でも、どうせ行けないけど、行けるなら行ってみたいところ、としてなら、満更悪くもありません。
どうせ行けないのだから、面倒くさいこともないものね。
そこまで考えて、もしかしたら、お金や時間など、物質的なものよりも、精神的な、面倒くさい、億劫、未知のものに対する不安、というもののほうが、私のストッパーになっているのかもしれないな、と思いました。

宝クジが当たったら、旅行よりももっと他にやりたいことがあっただけ、ということもあるし、歳をとって価値観が変わってきたこともあるかもしれません。
ただ、行ってみたい、見てみたい、体験してみたい、と思うことすらなかった自分の中に、少しでもそういう思いがあることに気づいて、自分でも驚いているところです。

今、世界が変わり、常識が変わり、私たちも変わっていかないといけないなかで、こういう変化はよい兆しかな、と思ったりしています。



久しぶりの参拝

久しぶりに、神社へお参りに行きました。
自粛ムードと暑さのおかげで、1〜2ヶ月ぶりくらいです。
なんだかんだと参拝には一時間ほど歩くので、近ごろやっと、夕方に日差しが和らぐ感じがしてきて、ようやく出向く気になりました。

参道を歩き、お参りをして、心洗われる、という理想的な感想はまあ、置いておいて。
私にも、まだこうして出歩こうという気力があったのか!という感動がありました。

もう年明けくらいから、仕事と運動以外には本当に出掛けないし、寄り道も最低限、という生活を送ってきて、とにかく家にいる。
家にいても、することは寝るか食べるか。
毎日ひまさえあれば寝ているので、人としての日常を、今後送れるかどうか、心配になるほどでした。
でもまだ、こうして目的を持って歩くことができる、そうしようと思う余力がある、と実証できたことは、自分自身に対して、しみじみ安心と喜びの気持ちになりました。

昨今の状況を見ても、純粋に外出を楽しめるようになるのは、早くても来年かな、と諦めの気持ちではいますが、人としての希望は忘れず、持っていたいと思います。






好みと現実

近頃は、お菓子を食べないことが自分の中で当たり前になったというか、断ることに慣れたというか、ちょっとしたおすそ分けに、自然とお断りの言葉が出てくるようになりました。

ただそうすると、次に出てくる話題が、
ダイエットか?
なんで食べないか?
普段は何を食べているのか?
何が好きなのか?

そこまでは、まだとっさの返しに言葉が出てきません。
私の好きなものは、パン、から揚げ、ポテトチップス。
ただ、普段食べているものは、サラダ、ナッツ、魚介類。
それをどう説明したらいいものか、困ってしまいます。

そもそもの一般常識として、よく食べるもの=好きなもの。好きなもの=よく食べる。という図式があるように思います。
実際、前は私もその通りに食べていました。
でも今は、好きなものと普段食べているものとは、全く違うのです。
きっと、私が正直に好きなものを答えたら、相手は普段そういうものを食べているんだーと認識すると思うのです。
でも、実際は食べません。
好きなものと、普段食べるものとは、別ものなのです。
ここの大前提が共有できていないので、どうも中途半端な会話になってしまいます。

まあ、ただの世間話で、私の食事のことなど相手にとってはどうでもいいことなのですが、この会話の宙ぶらりん感は、なんとも居心地が悪い思いをしています。

後から考えたら、私が世間に合わせて、サラダ、ナッツ、魚介類を『好きなもの』としてインプットしておけばいいのかな。
でも本当は、パンとから揚げとポテトチップスが大好きなんだよなーと割り切れない気持ちもあったり。
複雑です。