気ままに生きよ

気ままに わがままに 自分らしく

ワードローブ指針

もともと何事もシンプルが好きで、整理整頓も大好きでした。

ただ洋服に関しては、発揮しきれず。

原因は、いいものを永く使う、という価値観。

そのこと自体に異論はなくても、少し歪んだ形で自分の中に根付いていたようです。

 

改めて手持ちの服を見直して、経過年数も考えました。

自分の記憶と、ネットで購入したものは履歴が残っています。

そこで気付いたのが、今残っている洋服のほとんどが、この2.3年で揃えたもの。

そして、手持ちの中で、まだ着れると思いながら心に引っかかっている洋服は、2.3年経過したものでした。

もしかしたら、私の洋服の旬は3年が目安なのかもしれません。

私の中で、永く、というと漠然と10年をイメージしていました。

永く使うはずの洋服が、3年で飽きた、とは認めたくありません。

だから余計に、まだ着られる、と言い聞かせていたんですね。

もちろん、3年経っても変わらずよく着る洋服もあります。

たぶん、それこそが、私にとっての『いいもの』

いいものって、買うときに高いもの、人気があるものではなくて、結果としていい買い物をした、と思えるものなのでしょう。

 

10年愛用し続けたい、と幻想を抱く思いと、3年で結構経ったな、と肌で感じる感覚と。

そこに乖離があり、さらに、

使ってもいないのに、いいものであるはず、あって欲しいという思い込みと、日々変化する自分自身とのギャップ。

 

それらの違和感をずっと見て見ぬふりをしては、どうしようどうしよう、と上辺だけで悩んでいたようです。

 

すべての洋服は、消耗品。

いっそ、すべて使い捨てのシーズン服にしてしまえばラクかとも思いましたが、それも味気ない。ワンシーズンだからと、手荒に扱うようにもなりたくない。

だから、なるべく永く使いたくなるようなものを選ぶこと。

それでも賞味期限は3年と考える。

3年経てば、もう充分と思うこと。充分と思えるように、たくさん着ること。着られる服を買うこと。

 買うときには機会価格を考えて、納得できる価格で買うこと。そのうえで、たくさん着ること。できれば永く着られるように、大切に扱うこと。

そして、自分が快適と思う範囲で少なく維持すること。

 

ごくごく、当たり前のことかもしれません。

こんなことをわざわざ宣言するのもおかしな感じですが、でも、私にとっては目から鱗の新境地です。

これからは、もっと気軽に洋服と付き合い、そして楽しめるようになれたらいいな、と思います。

 

 

 

出口戦略

いいものを永く。

素晴らしい理念だと思いますが、私の場合、少し幻想が過ぎていたようです。

憧れのあまり、その考えに固執し縛られていたような。

大事にしないと。長持ちさせないと。永く使わないと。

いつの間にか、そんな義務感だけが残ってしまっていたように思います。

そんなだから、まだ着られる服を捨てることは、とても心苦しい。

でも、そもそも洋服だって消耗品。

そう考えたら、役目を終えた服を処分するのも当たり前のこと。

問題は、服を捨てる時の自分自身の罪悪感にあります。

なぜ、罪悪感を覚えるのか。

それは、まだ着られる、という認識を持っているからだと思います。

使えるのに、捨てるなんて。

永く使うはずだったのに。

まだ着られるのに。

だからと言って、わざと破ることもできない。

まだ着られる洋服を、どうすれば潮時と納得できるのか。

 

考えて、思い付いたのが、減価償却という概念。

コストパフォーマンスというのかな。

正しい意味合いとは違うかもしれないけれど、洋服の着用機会に応じて、その価値を消費していく感覚。

手持ちの服で思い出すのは、いつ、いくらで買った、ということ。

そして考えるのは、何年経ったし、何回も着た気がするけど、でもまだ着られるし、ということ。

そう。洋服が元の形を留めている限り、まだ着られる、と思ってしまうのは変えられない。

でもその間、何回着て、買値から機会価格を計算して、もう充分着たな、と思うことはできる。

まだ着られるけど、もう充分着たよ。

もう捨てても大丈夫だよ、と自分自身に許しを与えることができる、と思いました。

 

それだけでも、ずいぶん気持ちが軽くなる気がします。

そう思って手持ちの服を見直せば、どれもそれなりに消費していたことがわかります。

まだ着られる、もっと永く使わないと、というのは、終わりのない、ちょっとした強迫観念のようなものだったかも。

 

なかには、値段の割に着足りない、と反省するものもあります。

でもそれも、事実を受け入れれば、過去の失敗として処理できる。

反省して前に進むのと、いつまでもまだ着れるし、とうじうじ悩み続けるのとでは全く違います。

買ってしまった事実は変わらない。

買った時点で、その時のお金の使い道としては完了してしまっているのです。

 

いわば、洋服のEXIT戦略?

過去の遺物もそうやって見直すことで、また少し、現在のクローゼットの見方が変わりそうです。

 

 

一生モノ?

なかなか上達しない、洋服との付き合い方。

最近また過渡期にあって、気づいたことがありました。

私が洋服相手に右往左往するのは、きっと自分の判断基準が確立されていないからなんじゃないかと。

お金でも時間でも、自分の価値観がはっきりしていれば、優先順位を決めてやりくりすることは、そう難しくはないはず。

ところが、私の洋服に関する価値観、判断基準、スタンスというのがブレブレで、自分自身でも把握しきれていない状態。

そんな中あれこれ考えても、拠り所がないものだから、結局同じことを何度も悩んでいたんだろうと思います。

 

例えば、いいものを永く使う、という教え。

大人なんだから、いいものを身につけよう、という見栄。

反対に、流行ものを手頃な価格で入れ替えていく方法。

ものによって、いいものと流行ものを使い分ける技。

そして、洋服も必要なだけしか持たないという考え方。

 

そういうものが外からの情報として私の中で渦巻いていて、でも実際自分の目の前の洋服が、どこに属してどう扱うべきものなのかということまで、きちんと理解できていなかったのです。

 

去年の大整理のおかげで、自分の着たい服、着られる服は、だいぶわかってきたつもりです。

好きな服ばかりがあるクローゼットで、夏のシーズン服以外はそれなりにいいものを揃えたつもり。

永く着られるように、大切に扱ってきたつもりです。

 

さて。ところで。

永くって、いつまでのことを言うんだろう。

大切にしてきただけあって、目ぼしい劣化も見当たらない。

好きなスタイルだけあって、もう着ない、というほど邪魔でもない。

あれば着るし、着られるし。

 

でも、それでいいのか?

そうすると、私は今ある服を破れるまで着ることになるんだろうか。

着続けて、飽きるまで着ることになるんだろうか。

好きな服を飽きることがあるんだろうか。

洋服って、そういうものだっけ?

 

ここで当たり前のことに気付きました。

いくらメガネにかなった洋服でも、いつかは役目を終えるときがくる。

どんなにいいものだろうと、別れの時はやってくる。

そして、それを決めるのは自分。

 

今までも、洋服の出会いと別れは繰り返してきました。

買うことに関しては、選考基準がある程度身についてきたと思っています。

入ったら、出る。

ところが、出る方に関しては、まだとても曖昧。

これまでのことを思い返しても、ただなんとなく。とか、思い切って!とか、その場の気分と雰囲気次第でした。

どうも、それでは今の厳選クローゼットには通用しない気がします。

 

そして、今さら納得しました。

一生モノなんてない。

どんなに『いいもの』であっても、すべての洋服は消耗品なんだ、と。

 

チェックの誘惑

洋服の悩みは続きます。

どうしてこんなにハマってしまったかというと、無印良品で見かけたチェックシャツ。

いいな、と思ったものの、私はシャツが嫌い。

カッチリかしこまった感じがするし、肩が凝りそう。

だから、チェックがいいな、と思っても、シャツはないな、と素通りしました。

ところがそのあと通りかかったディスプレイで、チェックスカートにヒールのブーティを合わせているのに、ガツンときてしまいました。

これ着たい!

 

ディスプレイのイタリアジーンズブランドは、私の好きな路線ではあるものの、実際買って着るほど好きではない、というところだったので、商品は見ずにアイデアだけいただきます。

チェックのシャツワンピースに、ブーティ。

なんだかしっくりイメージが湧いてくる、と思ったら、まんま、5、6年前に自分が着ていた組み合わせでした。

ローリーズファームの、赤黒チェック。

とことん着て、ワンシーズンで手放した気がする。懐かしい・・・。

 

それから、チェック、チェック、でひたすらネット検索。

そこで気付いたのが、カジュアルシャツなら私にも着られそう、ということ。

羽織りものって、私の中ではとにかくカーディガンっていうイメージだったのですが、シャツもアリだな、と開眼しました。

そういえば、昔は私もガーゼシャツを重宝していたなぁ。

しばらく職場を意識して、大人しく目立たない服ばかりを選んでいたので、デニムカジュアルなテイストは避けていたけれど、今の私は自由!

好きな服が着られるんだ!

 

そうは言っても、シャツを羽織って過ごしたい時期は、もう半分くらい過ぎてしまっているような。

もちろん、冬にもシャツにダウンっていう普通の着方があるだろうけど、面倒くさがりの私のこと、わざわざ得意じゃないシャツを着るかな? 

お出掛け着に合わせるにしても、チェックシャツに合いそうなのは、ホワイトデニムくらいだし。

ひとまず、チェックシャツは買わないBOXに移動です。

 

その間2.3日。

歩けばチェック。振り向けばチェック。横切るチェック。追い越すチェック。

もう、気が触れたんじゃないかと思うくらい、行き交う人々がチェックを着ている。

私も気になっているから、過剰に反応しているんだろうけど、凄まじいチェックの嵐。

面白かったのは、若い子のオシャレチェックだけじゃなくて、おじさんの普段着チェックにもいいね!と反応している自分。

とにかくチェックの気分みたいです。

 

チェック探索の結果、シャツほど多数じゃないにしても、ワンピースも発見しました。

それも、私の好きな真っ直ぐラインのシャツワンピース。

ルブタンのブーティに合わせるとしたら、赤系の色が入っていた方がいいかな、と思っていたら、まさに赤黒。

もう少し白とか青とかも混ざったお洒落チェックがよかったなーと思ったけど、白黒ワードローブに染まった今の私には、リハビリ的に、これくらいの方がいいのかも、なんて、都合のいい言い訳も出てきます。

しかも、yoox価格で定価の半額。

その翌日には、期間限定さらに25%OFF!

これは、奇跡の出会いか⁉︎

 

でもね。

私もこの数年、学習したわけですよ。

確かに、今までにない閃きでアピールされてるわけですが、本当に着る機会があるのか。

残念ながら、10月以降人に会う予定は白紙。

もちろん、カジュアル服だから日々着る機会はあるだろうけど、その程度の用事なら今ある服でも十分用足りています。

それなのに新たに追加する意味はあるのか。

増して、今流行りのチェック柄。来年には着られないかもしれないのに、何度着る機会があるだろう。

そう思うと、やっぱり買えない。

でも考え方を変えたら、ちゃんと洋服を活用するように、もっと出掛ける用事を作ればいい、ということを言われているような気もするのです。

 

好き、欲しい、だけじゃ買えない。

とはいえ、それ以外に洋服を買い足す理由もない。

どこで折り合いをつけたらいいものやら。

ずーっと商品画面を眺めながら、唸っています。

 

 

 

 

葛藤クローゼット

久しぶりに洋服に興味を持って、今の手持ちの衣類についても見直しました。

そもそも外出の機会が少ない私は、お出掛け着を着る機会も少なく、あるけどほとんど着ていない。着る機会もないから、飽きるほどでもない。着ていないから、傷むほどでもない。

そして、着ないなら要らないか、といえば、着る機会があれば着る、着たい、という気持ちがあるので、捨てるに捨てられない。

それに、処分したら同じものはもう二度と手に入らない、と思うと、やっぱり捨てられない。

それでもだいぶ厳選して残した洋服たちですが「厳選」でありつつ「捨てられない」未練のクローゼットでもあるのです。

 

私自身、滞り感を感じていて、よくある作戦で、新しく買ってその分減らす、ということも考えましたが、なにしろ新しく買ったところでどうせ着る機会はない、と思うと、わざわざ買う気にもなれない。

だったら、今のもので間に合わせよう、と思ってしまうのです。

お洒落に無縁な者の残念な思考回路で、買えない、捨てられない、という堂々巡りをしています。

 

まあ、捨てられないと思うくらいに気に入っているものたちなので、着る続けることはやぶさかではありません。

それらを処分してまでも着たい、欲しい、と思うものがないということでもあるので、それはそれで、無理して買う必要はないんだと思います。

 

そうは言っても、この燻り感。

衣類の整理を考えるたびに、相変わらずの20着を眺めるのにも飽きた。

でも、実際に着るのはホントたまに、なので、その時の新鮮味はあるかも。

マンネリ打破のため、聖域に手をつけるか。

最近、捨ててやった!というスッキリ感がないのよね。

捨てたい、けど、捨てられない。

変に思い入れが強すぎて、扱いに困っています。

もういいや、と思えるようになっていないうちは、まだ捨て時ではないのかも、とも思うけど、思い切って処分することで未練を断ち切ることも必要かも、とも思う。

 

こういう悩みを楽しめない私は、やっぱりお洒落には向いてない人種なんだな。