気ままに生きよ

気ままに わがままに 自分らしく

引き寄せ

願いは叶うといいますが。

正しい願いであること、叶うことを信じることが、大切です。

簡潔に述べれば、そういうことのはずですが、それが簡単ではないことは、私も実感すみ。

でもそこに近道がない以上、なんでもやってみないことには、先に進まない。

初めから、大それた望みじゃなくていいのです。

今の自分からかけ離れ過ぎていても、信憑性に欠けて、願いは届かない。

身近な、小さなことから始めてみる。 

 

苦手な仕事を、誰か手伝ってくれないかなぁ、とか。

そのときに大切なのは、自分の望む形や予想した形にこだわり過ぎないこと。

先の例で言えば、誰かに手伝ってもらった、という事実以外を認めないというようなこと。

もっと広い意味で捉えないとダメです。

段取りの都合で、締め切りが延びたとか。それだけでも、自分から遠ざけたことには違いない。先々、自分の手を離れるかもしれないし。

もしくは、新しいシステムが入って自分でやるのも苦ではなくなった。その仕事が苦手じゃなくなる、ということでも、望みは達成されているはず。

すると、自分の本当の望みはなんだったのか?と考えるきっかけにもなりますね。

時間がかかるのが嫌なのか、単調な作業が嫌なのか、もしくは関わる人が嫌とか。

それがわかると、対処の仕方も出てくる。

繰り返していくと、自分の好き嫌いが見えてくる。

自分の快適さを追求していくと、自分の居場所、目指す場所、やりがい、生きがいもあぶり出されるようになるはずです。

そうやって、自分の本当の願いを見つけることもあるんだろうと思います。

 

引き寄せに大事なのは、なんでも成功だと思うこと。

狙った通りじゃなくても、自分にとって最善の結果です。

どうしてこういう結果になったのか。

この結果にはどんな意味があるのか。

こじつけでいいのです。

 

願望に対して、ここまで近い結果が得られて、よかった。

自分の無意識に、願望に抵抗するような思い込みがなかったか?

今はそのタイミングではなかったのかも。

まだ結果に結びついていないだけ。などなど。

 

とにかく、その結果を受け入れる。

そこには必ず意味があると考える。

 

でもそうしたら、うまくいかないことなんてないんじゃない?

インチキだ、詭弁だ、と言うこともできるかもしれません。

でも、それが信じるということ。

信じるということは、とてもシンプルで単純なことなのです。

失敗はないと知ること。

こじつけだろうとなんだろうと、それが正しいと信じる、納得する、理解する。

繰り返すたびに理解が深まり、願いが叶うということが、真実になっていく。

そして繰り返すごとに、自分の本当の願望に近づきます。

 

この小さな積み重ねが、正しい願望を見つけるステップにも、信じる訓練にもなっているわけです。

 

 

信じ切る

私の本当の願いはこれ。

そしてそれが実現することを心から信じています。

 

っていうのが、願いを叶える=自分らしく生きることに必要だと思っています。

でもその状態も、誰かが客観的に認定してくれるわけじゃないから、本当に本当か?疑いなく信じているか?という判断が難しい。

要するに、願いが叶う条件が、とても曖昧。

でも、明確な条件基準がないからこそ、信じたもの勝ちと言えなくもない。

 

なにが本当か、というのは、自分自身に聴くしかない。

自分にとっての本当だから、自分さえ本当だと思えたら、どんな願いだっていいわけです。

世間では・お金が・時間が・年齢が、というしがらみを、度外視するほど、本当の自分に近づけるように思います。

 

そして、叶うと信じることも必要だとは思いますが、どうなれば信じたレベルに達したのか、というのがまた、難しい。

ただ、強く強く思えばいいってものでもない。

 

繰り返しになりますが、間違った願望であれば、いくら固く決意したところで実は結ばないと思う。

宝くじに当たりますように、とか。

これは私も何度も失敗してる。

お金を使ってなにをしたいのか、というほうに意識を向けないといけないみたい。

その手段として、宝くじが当たるという幸運な出来事が起こる、ということなんだろうと思います。

あったらいいな、こうだったらいいな、というくらいの希望は、明日晴れたらいいな、と思うくらいと同じもの。

そういうものは、願望とは認識されないみたい。

ただ、きっかけがそうだったとしても、なぜ?どうして?じゃあこれは?と、試行錯誤、思いを巡らせて、純度を高めていくうちに、自分自身の大きな願いに到達することもあります。

そうやって手の中で繰り返し捏ねているうちに、夢に見慣れてくる。理想が身近に感じられるようになる。本当にそうなるような気がしてくるし、そこまでいけば特別強く願わなくても、目指すことが当たり前となっている。

願いには、強さより、深さの方が大事なのかもしれませんね。

 

あとは、時間をかければいいというものでもないみたいで、ということは、時間に限らず叶うこともあるということ。

自分自身の本質や特性に一致するとか、タイミングが合ったりすれば、あっと言う間に、意識が願うことすらする前に、理想の形に近づくことだってあるということ。

 

こうして考えてみても、あまりにもバリエーションが幅広く、王道は決められません。

そしてどこがゴールかも、本人にしかわからない。

他人が、どこを目指して、どうすれば、どんなふうになって、あなたは幸せになれます、とは言えません。

でも、自分自身にはわかります。

本当の願望はこれだ、この道を行けばいいはずだ、という自信。確信。

きっと、これかな?ここかな?と思う気持ちがあるうちは、まだまだ。

これしかない、ここでよかった、と思えるようになったら、それが本当なんだと思います。

 

 

 

 

叶えるために

願いを叶えるのが難しいと思うのは、そもそもの願いが何かを分かっていないから。

願いを定めるのが難しいのは、定めた、という基準、それから、叶ったと判断する基準が曖昧だから、だと思います。

 

出先でお腹がすいて、ラーメンを食べたいと思ったときに、ちょうどラーメン屋さんを見つけること。

アイドルになりたくて、オーディションに応募する、歌やダンスのレッスンに励むこと。アイドルにはなれなかったけど、歌の先生になってみんなから称賛され、周りを明るくする毎日が楽しくて仕方がないこと。

 

これは、どっちも願いが叶ったと言えるものだと思います。

ラーメンを食べたいと願う、食べて叶う。

みんなを励まし元気にしたい、という願いがあって、歌が好き、子供が好き、注目されるのが好き、という本人の特性と合わせて、相応しい立場を得て活躍する。アイドルという手段ではなかったけれど、より近くで笑顔を返される毎日に満足していること。

 

規模が違う、所要時間が違う、とベツモノと思いたくなりますが、たぶん原理は一緒なんだと思います。

だから、難しい。

 

なにを願いとするか。

どうなったら願いと認められるか。

いつ叶うか。

どの状態で叶ったと認めるか。

 

私の願いはアイドル、と思ったとしても、そんなの無理と周りから言われるかもしれない。

言われなくても、自分自身の無意識がどうせ無理と思っていても邪魔される。

自分の本質には、アイドルという偶像より身近な人気者の方が合っているという場合もあります。

そうすると、アイドルになれなかったほうが幸せだと言えるかもしれない。

 

かたやラーメン願望は、ラーメン屋さんでお金を払えばラーメンを食べられるのを知っている。

商店街の方へ向かえば、ラーメン屋さんくらいあるだろうと予想する。スマートフォンで検索してもいい。

少しの手間でラーメンを食べられると信じている。

本当はお気に入りのお店のラーメンがよかったけど、そこまでは求めない。今、ラーメンが食べたい。

結果、ラーメンを食べて満足、満足。

これもひとつの願いが叶ったかたち。

 

どんな願いでもいいけれど、叶うと信じること。心から願うこと。

自分にとって、正しい願いであること。

 

どういう願いを、どういう方法で、どうすれば、いつ実現する、ということを、完全に説明することはできません。

これは私の勉強不足か、人類の表現力の限界か。

今わかるのは、まずは自分の本当の願いを見つけること。

そして、願いは叶うということを、信じるより深く、理解し実感するようになることで、そこへ近づけるようになるんだろうということです。

 

 

 

 

 

願いとは

願いを叶えるのが難しい、と感じるのと同じくらい、願いを定めるのが難しいのです。

そもそも、願いがなければ結果もない。

あるのは、世の中によくある予想と結果。その他大勢という結果。

 

もちろん、多数派でいてもいいのです。

みんなと同じサラリーマン。でも、自分が望んでそうしていて、そんな自分に満足しているなら、それはとても幸せなこと。

悲しいのは、自分はそうはありたくないのに、そうするしかないと思って我慢して一生を過ごすこと。さらには、自分が我慢して諦めていることすら気付かずに、一生を終えてしまうこと。

知らずに終われば、それはそれで幸せなのかもしれませんが、でもきっと、そういう人はいないと思う。

人は・動物は・あらゆるものは、本能的に自分本来の姿を求めるものだと思うから。

 

だから、違和感を感じて抜け出そうにも、どこに向かえばいいのかわからない。

願いがわからない状態。

願いがなければ結果もない。

願いが叶うなんて、確かめようもないし、試そうとも思わない。

 

願いがない、希望がない、こうなりたいと思う理想像がない、自分の目指す幸せがどれなのかが分からない。

 

この段階が、いちばん難しいと思う。

自分の幸せが分かって願いが定まれば、それが信念となって、自然と成就する方向へ向かう。

 

願いは叶う。

さて、その願いとは、なんだろう。

 

 

 

 

願いが叶う

願えば叶う。

 

これは真実。

この時点で、ありえない、と離脱してしまったら、それこそその先はありえない。

ウソ?本当に?と、疑う気持ちがある人は、充分に願いが叶う人。

嘘かもしれないけど、もしかしたらあるかもしれない、と信じる気持ちがほんの少しでもあるということだから。

 

そもそも、人が、自分の思った通りになっていくのは、本当のこと、当たり前のことなのではないでしょうか。

こうなりたいと思えば、そうなるように努力するし、出来るわけないと思えば、出来るまではやらない。

そうなりたいと思っても、出来るわけないと思えば、なにもしない。

そうなりたいと思いながら、今は遠いところにいたとしても、思い続けることで近づいていく。

そうやって考えていくと、願いが叶わない理由がない、と思えてきます。

 

人には、都合がいいのか悪いのか、無意識、というのがあります。

願いが叶わないことの理由のひとつに、無意識が邪魔をしている、ということもできます。

これは、無意識の中身を全て証拠として上げられない以上、無意識のせいにしてうやむやにしていると言われても仕方がないかもしれません。

それから、上辺の願いを叶えたところで、本当の願いが叶うものではない場合。

例えば、宝くじに当たりますようにっていうのが、そういうものなんだと思います。

あとは、願いが叶うのに相応しい時期を待っている、という理由もつけられます。

だから、すぐに結果が叶わないこともある、と。

 

そうやって、いろんな事情があるにしろ、自分が願ったこと、考えたことは、なにかしら結果に繋がっていく。

だったら、好きなだけ好きなことを願ったらいいと思う。

予定通りに全てが叶うわけではないけど、絶対にそうならないものではない。

お腹が空いたからパンを食べたい、と願って、コンビニで買って食べる。

困っている人を助けたい、と願って、目の前の仕事に精を出し、いずれそういう立場に立つ。

どちらも、同じ原理なのかもしれないと思うのです。