気ままに生きよ

気ままに わがままに 自分らしく

信じ切る

私の本当の願いはこれ。

そしてそれが実現することを心から信じています。

 

っていうのが、願いを叶える=自分らしく生きることに必要だと思っています。

でもその状態も、誰かが客観的に認定してくれるわけじゃないから、本当に本当か?疑いなく信じているか?という判断が難しい。

要するに、願いが叶う条件が、とても曖昧。

でも、明確な条件基準がないからこそ、信じたもの勝ちと言えなくもない。

 

なにが本当か、というのは、自分自身に聴くしかない。

自分にとっての本当だから、自分さえ本当だと思えたら、どんな願いだっていいわけです。

世間では・お金が・時間が・年齢が、というしがらみを、度外視するほど、本当の自分に近づけるように思います。

 

そして、叶うと信じることも必要だとは思いますが、どうなれば信じたレベルに達したのか、というのがまた、難しい。

ただ、強く強く思えばいいってものでもない。

 

繰り返しになりますが、間違った願望であれば、いくら固く決意したところで実は結ばないと思う。

宝くじに当たりますように、とか。

これは私も何度も失敗してる。

お金を使ってなにをしたいのか、というほうに意識を向けないといけないみたい。

その手段として、宝くじが当たるという幸運な出来事が起こる、ということなんだろうと思います。

あったらいいな、こうだったらいいな、というくらいの希望は、明日晴れたらいいな、と思うくらいと同じもの。

そういうものは、願望とは認識されないみたい。

ただ、きっかけがそうだったとしても、なぜ?どうして?じゃあこれは?と、試行錯誤、思いを巡らせて、純度を高めていくうちに、自分自身の大きな願いに到達することもあります。

そうやって手の中で繰り返し捏ねているうちに、夢に見慣れてくる。理想が身近に感じられるようになる。本当にそうなるような気がしてくるし、そこまでいけば特別強く願わなくても、目指すことが当たり前となっている。

願いには、強さより、深さの方が大事なのかもしれませんね。

 

あとは、時間をかければいいというものでもないみたいで、ということは、時間に限らず叶うこともあるということ。

自分自身の本質や特性に一致するとか、タイミングが合ったりすれば、あっと言う間に、意識が願うことすらする前に、理想の形に近づくことだってあるということ。

 

こうして考えてみても、あまりにもバリエーションが幅広く、王道は決められません。

そしてどこがゴールかも、本人にしかわからない。

他人が、どこを目指して、どうすれば、どんなふうになって、あなたは幸せになれます、とは言えません。

でも、自分自身にはわかります。

本当の願望はこれだ、この道を行けばいいはずだ、という自信。確信。

きっと、これかな?ここかな?と思う気持ちがあるうちは、まだまだ。

これしかない、ここでよかった、と思えるようになったら、それが本当なんだと思います。