お金は手段
お金との付き合い方については、まず、お金についての考えをハッキリさせておかないといけません。
今の世の中、お金さえあれば大抵のことは事足ります。お金さえあれば安心。
そのニュアンスを少し間違えると、お金さえあれば!とお金自体に執着することにもなってしまいます。
本当は、素敵な家があって、美味しいご飯があって、大好きな人たちがいて、毎日楽しければ、お金なんてなくてもいいはずです。
欲しいものが願うだけで叶うなら、お金が手元にあるかないかは、どちらでもいいということになります。
私は、もともと貯金や節約が得意なタイプでした。
その分、お金の使い方が下手なんですよね。
お金を貯め込むということは、なくなる不安があるということ。
使うとなくなってしまう、というイメージだったんだろうと思います。
それが、お金がなくても願望が実現する、と思えるようになると、お金のあるなしはそこまで重要なことではなくなりました。
美味しいものを食べたい、と思って、無理して高級レストランに行かなくても、友人に振る舞ってもらって楽しい時間を過ごせたら、それはそれで幸せなことだと思います。
そういう場面を想像したら、お金がなければいけない理由もないし、お金があったらこうしたい、という順序も必要ないように思えます。
お金が必要な場面ももちろんたくさんあるだろうけど、お金がないからと言って得られないものばかりではない。
そこまで含めて、なんとかなる、と思えると、お金はあくまでも手段、という考え方もすんなり馴染めるように思います。
なんとかなる
会社に属してお給料をもらえたら安心。
公務員は安心。って、世間一般のイメージです。
その代わり、自営やフリーは不安定だからダメ。
これも一種の思い込みではないでしょうか。
大企業だって倒産するかもしれないし、法律だって変わるかもしれないし。
未来の可能性ということを考えたら、どっちも絶対安心とは言えないはずです。
フリーだから貧乏とも限らないし、安定しているから幸せとも限りません。
そういうふうに考えだしたら、大多数のイメージに左右されることが、とてもくだらなく思えてきます。
先のことはわからない。
どんな可能性もある。
そう思って、うまくいくことだけを考えていくのは、お金のことでも同じです。
ただ、お金というものについての考え方が、とても問題。
誰でも、お金があったら〜宝くじが当たったら〜って、夢をみることがあると思います。
でも、それじゃあ本当の願望は叶わない。
なぜなら、お金を持つことが最終目的ではないから。
お金は、すべての媒介なんだと思います。
大事なのは、お金を使ってなにをしたいのか。
むしろ、やりたいことさえ叶うなら、お金なんてなくてもいいくらいのものなんだと思います。
ちょっとした発想の転換。
でも、それがとても難しいです。
私も、いくら貯金が貯まったら、とか、考えていました。
でも、自分が本当にやりたいことにフォーカスしていって、その状況に近づくようになって思うのは、お金は後からついてくる、ということ。
当初、私の密かな退職予定日は12月末でした。希望の三千万円にはほど遠いですが、それまでに少しでも貯金を増やそうと思っていました。
月にいくら貯金して、退職時までにいくら増やす、と決めていました。
ところが勢い余って6月末での退職。
半年ぶん貯金しそこねたなーと思ったら、交通事故の慰謝料で、貯金予定相応額が支払われました。
願いがあれば、すべてはそうなるように動いていくものなんだろうと思います。
経済面も含めて。
だから、するべきことはお金の心配ではなくて、何を実現したいか、を考えること。
普通なら、仕事を辞めたら慌てて次の仕事を探そうとするんだろうと思います。
仕事が決まらないことに焦ったり、お金がなくなったらどうしようと不安になったりするんだろうと思います。
それなのに、私が今、のんびりと生活を楽しめる理由。
それは、なんとかなる、と思っているから。
なんとかなる、と思っているから、不安になることも焦る必要もないのです。
それと同時に、なんとかなる、と思えたからこそ、思い切って退職もできたんだろうと思います。
予感する
好きなことだけして、自由に暮らしたいなんて、なんてふざけた言いぐさでしょう。
学校の先生には怒られそうです。先生じゃなくても、世の中の大人は怒るでしょうね。
そう思うので、私も公には言いません。
でも、密かにそう思って、密かに実現しています。
これが、思いが実現するということなのかと思います。
働かなければならないと思えば、働く道を選ぶ。
働かずに生きる道を選べば、働かなくても生きていける。
働かない、という表現には語弊があるかもしれません。世間一般の給料をもらう働き方のことですね。
野生の鳥が餓死しないのだから、人だって生きるに困ることはないはずだ、という聖書の教えを思い出します。
そうは言っても、お金を稼ぐために仕事に就くのが当たり前、という世界しか知らない人間にとって、それ以外を想像するのはとても難しい。
私もそうでした。
特別な人でなければ無理だと思っていたし、自分はそうなれないと思っていました。
でも、どうして私ではダメなのか?
そう思う理由は?
私がそうなれない根拠は?
100%否定できないということは、少なくとも可能性はあるということではないでしょうか。
ここから、思考の枠を外す作業です。
可能性があるかないかと問われれば、ある。
いつ、どうやって、という予定がなくても、可能性としてはある。
それだけわかれば、充分です。
そこから、なんとかなる、という予感が生まれるのです。
私の夢
リタイアしたのは犬のため。
間違いではありませんが、それだけが目的だったとも思えません。きっかけのひとつだったんだろうと思います。
よくよく考えてみたら、いえ、考えるまでもなく、私はリタイアしたかった。
それを、お金がないと、とか、働かないと、とか、よくわからない固定観念が妨げていただけです。
正しく言えば、リタイアをしたかったわけではなく、自由になりたかった。
会社員でいれば、社会的な身分は保証されるし、経済的にも安定します。
それと引き換えに、組織の秩序に縛られる。
時間的なこと、給料のこと、配属や昇進査定、もちろん仕事の進め方。それから人間関係。
自分の思い通りになることなんて、ほとんどありません。
そこに納得できる理由があればいいですが、ただただ虐げられているようにしか感じられなければ、拷問でしかありません。
私には向いていない、と思いながら、社会とはこういうもの、と我慢するばかりでした。
もっとやりがいのある仕事に就けば、もっとお給料が高ければ、天職と思えるような仕事に巡りあえたら、とも考えましたが、答えは出ず。
じゃあ、お金や世間体などを考えずに、どういう生活をしたいかと考えたら。
時間に縛られず、誰からも指図されず、自由になりたい。
趣味を続けたい。
それだけでした。
きっとずっと前から、私の願望はそこにあったんだろうと思います。
その願いが実現するように、たまたま犬の10歳というタイミングに合わせて、期が熟すように調えられていったんじゃないかと思います。
実現?
なぜ私が今、悠々自適な生活をしているか。
もちろん、自分が望んだからです。
でも、だからと言って綿密に計画的に、何かをしたとも思えません。
ぼんやりと、貯金が三千万円くらいあったらリタイアしてもいいかなぁとか、そしてマンションを買って〜とか、あーやっぱり一億くらいは欲しいなぁ、宝クジでもあたらないかなぁとか、そんなことを考える日々でした。
やっぱり先立つモノがないと、不安。
それと同時に、自分がなにを一番望んでいるか、を考えました。
生活をしていくのに、働いて稼がなきゃいけないのだったら、せめてやりがいのある仕事がいい。
今の生活の何が不満か。どうなれば快適に思えるか。
まず、朝起きて憂鬱になるような生活は嫌です。
仕事は嫌いではありません。
でも組織の中で、みんなと同じを強要され、押さえつけられるような息苦しい思いはしたくない。
もっと尊敬できる尽くしがいのある人とだったら、楽しく働けるんじゃないか。
自分の居場所がここではないような感覚をもちながら、でもどこへ行ったらいいのかわからない状態でした。
そろそろ限界を感じて、年末にリミットを設定しました。
それまでに少しでも貯金を増やして、やりたい仕事を見つけて、準備を進めようとした矢先。
プチっと糸が切れるように、5月に退職を決めました。
まだ、どうなりたいと願望が見えたわけではありません。
ただ、ここではないことははっきりしていました。
時間に余裕ができて、人との関わりもぐっと減り、世間の干渉から離れて、自分自身の気持ちと素直に向き合うことができるようになりました。
そして、思い出しました。
何年か前、うちの犬が10歳になったら、仕事を辞めて面倒を見ることを最優先にしようかな、と思ったこと。
私が退職を決めた5月の15日に、ちょうどその犬が10歳を迎えたところでした。
偶然?まさか、私の願い通り?
最近はまだまだ犬が元気なので、退職するにしても、もう少し先でもいいかな、と思っていました。そのぶん貯金もできるはず。
そうやって、先延ばしにしようとしていたはずなのに。
それが、ぴったり10歳になってすぐにこんなことになるなんて。
なにか特別なお祈りをしたわけではありません。強く願う特別なきっかけがあったわけでもありません。それから毎日片時も忘れずに祈り続けたわけでもありません。
むしろ、あと2.3年は延期にしようと思っていたはずなのに。
私が考えた通りになっている。
希望が現実になっている。
もしかして、こういうこと?と具体的に考え始めたのは、これがきっかけでした。